9つの極楽、136の地獄
April 19, 2008 | Filed Under Uncategorized
「怖がらないでいいよ」
僕はそっと岩に頬を押し付け、朝陽を浴びた彼女の暖かさを感じながら言う。
すると再び風が吹き、氷のつぶと小石が顔に当たる。
剱岳は怖がっていないようだ。
しばらくすると怒りはおさまり、ヘルメットへの攻撃も静かになる。
命綱を固定し、山頂への崖を慎重に登り始めた。
道を誤り、包丁の先端のような尾根に出る。
足のすぐ両脇は、数百メートルの谷。
感じるのは、恐怖と己の愚かさ。
冬の剱岳を登れる人は、世界中のどんな山でも登れる、と言う。
確かに。
ただその前に、この山を降りるのが先だよな・・・
そうして、山頂が目の前に現れた。
雪に覆われ、所々黒い岩が顔を出している。
今の季節、昼の時間は短い。
どんなに山頂間近にいても12時を回ったら引き返そうと決めていた。
僕が山頂に立ったのは11時56分だった。
1907年、ある地理研究チームが初登頂した際、平安時代の宗教儀式に
使われていた金属の道具と灰を見つけたらしい。
そんな昔にどうやって登ったんだろう・・・
前日僕は別山にいた。他に誰もいなかった。
空は真っ青、地は足跡一つない真っ白な雪。
数日前の嵐で雪は50cmほど積もり、立っているもの全ての風下側には
櫛のように氷がついている。
テントを張り遠い剱岳の雪頭を見つめたっけ。
土曜日のこの日も朝から天気が良かった。剱沢谷も剱岳も、見える限り誰もいない。
向こうから誰かがやって来ないだろうか、とずっと期待していたが、誰も来ない。
遠く北アルプス~白馬、唐松、五竜、鹿島~の山並から太陽があがる。
今回のこのルートは長く大変なものだった。
雪は見た目は硬そうだったが、僕の体重を支えるにはちょっと硬さが足りない。
何度も何度も何度も膝まで沈む。
剱本山の一つ手前の山、前剱までなんとか辿り着いた。
そして足元の片側は傾斜50度くらいのアイスバーン 。
もう片側は氷と雪が半々の道。
すべる。ピッケルを使い、なんとか持ちこたえる。そしてまたすべる。
土曜の朝、いつもなら骨董通りのスタバにいるのに・・・
数箇所に設置されている命綱の鎖が雪に埋まっている。
なんとか掘り出せたものもあったが、一番最後の一本は完全に氷の下だ。
諦めて自分のロープを出して鎖場の金具につなぐ。
このロープはここにおいていくしかない。
この後ロープが必要にならないことを心から祈る。
山頂からの帰り道は長く、反省するにはもってこいの時間だ。
この山には、「神の使い」と言われる雷鳥が多い。
一羽が僕の上にやってきて、テントまでの道を案内してくれた。
別山のテントに戻り、ボーっとする。
ここでは一つ一つの行動に、ものすごい意思の力とエネルギーを必要とする。
とりあえず雪を溶かしてコーヒーを作り、持ってきた食べ物を流し込むと、
あっという間に寝袋にひきずりこまれる。
太陽と風に焼かれた顔を感じながら夢の世界へ。
死んだように眠り、アラームの音で目が覚める。4時半だ。
そう、日本の3大霊山の一つ、立山に登り始める時間。
別山から立山の尾根はゆるいS字をしている。
北側は雪が深く、冷たい冬風によって雪の山肌がありえないくらい美しくなめらかに彫られ、
まるで氷のグッゲンハイム美術館のようだ。
南側を歩くこと、と頭に入れ、雷鳥を友に再び歩き始めた。
立山の山頂のすぐ下で、二日ぶりに人を見た。
僕の上の斜面を不安定に滑りながら降りてきた。
ピッケルを正しくない位置で握っていた。
滑り落ちた時、あのピッケルの位置でどうやって自分の体を止めるんだろう・・・
とりあえず、巻き込まれない位置に移動した。
頂上の大山神社からは天気のいい日には富士山も見える。
参拝し、無事登頂できたことへの感謝を告げると、猛スピードで山を降り、谷の底にあるホテルへ向かう。
谷の周辺は観光客が多く、皆ゆっくり楽しそうに冬の陽がきらめく雪山の写真を撮っている。
仏教ではこのあたりの高い山は9つの極楽を表し、硫黄の匂いがする麓の谷は136の地獄を表すという。
「なんてきれいなの!天国は本当にこんな感じだといいね!」と通りすがりのおばさんが山を見て言った。
・・・そうか・・・?
マイナス10度以下で、食べ物もなくて、誰もいない、雪だけの場所が、天国・・・?
地獄谷の熱い温泉に入り、冷たく冷えた美味しいビールを飲みながら思った。
結構、地獄にもいいとこあるぞ。
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